コジマコージ

2020. 01. 20

喧騒と静寂の蜃気楼

 

 空に油をこぼしたような朝焼けに僕の足取りは重かった。

 街はまだ夜の名残を引きずっている。内戦中のネパール国内を旅したのは2004年の冬。最初に訪れた首都カトマンズでの数日間にいい思い出はひとつもなかった。排気ガスと砂埃のせいでクシャミと涙が止まらない。街を歩けば観光客相手の土産物屋やタクシー運転手にずっと付きまとわれる。そんな日常に心身ともに疲れ果てていた。

「Don’t sit down!(しゃがむんじゃないぞ)」

 チェックアウトしたホテルのフロントで不思議な言葉をかけられた。あれはどういう意味だったのだろう。Don’t sit down, Don’t sit down…ずっと頭の片隅でマントラのように繰り返しながら、静寂に包まれた街の往来をバッグパックを背負った異国の亡霊たちに混ざって同じ方向にずるずると歩く。やがてモノクロだった世界に色が差しはじめると、視界の違和感とともに眩暈のようなものを感じ、目の前の光景に固唾を飲んだ。

 地面近くの風景が揺れていた。

 慌てて足元を見下ろすと腰から下がダリの絵のように歪んでいる。その正体は有害ガスだった。もう十数年前の話なので今はどうか分からないが、当時のカトマンズの空気の悪さは世界一と云われており、昼間に排出された大量の排気ガスやその他諸々の有害ガスの類が早朝の湿った空気の下に沈殿して足にまとわりついてくる。たしかにしゃがんではいけない。僕の足取りは物理的に重かったのだ。

 ちなみに衣類用の防虫剤も有効成分を含んだガスの効果で虫食いを防ぐ。防虫剤のガスも空気より比重が大きいため、洋服ダンスでも下の方に沈んでゆく。防虫剤は衣類よりも上に設置しないとせっかくの効果が半減してしまうので注意が必要だ。さらに防虫剤は一種類での使用が鉄則。種類が違う防虫剤が混ざると化学反応を起こしてシミの原因になってしまう。

 喧騒の気配が街に戻り始めると早朝の蜃気楼はどこかへ消えてしまった。バスターミナルで待つこと数十分。定刻から少し遅れてやってきたのはポンコツを絵に描いたようなバスだった。外観はボコボコで内装もシミだらけ。何のシミなのか分からないが防虫剤のシミではないだろう。不安そうな僕の気持ちを察したのか、乗り込むときに運転手が笑顔で声をかけてくれた。「ノー・プロブレム」。ネパール人は親切でフレンドリーな人が多い。疲れ果てた心と体にそのひと言がとても沁みた。


 しかし、出発早々にバスは大きく跳ねて天井で頭を何度も痛打した。どこがノー・プロブレムなんだ。ガードレールもない断崖絶壁の砂利道をボロボロのバスは猛スピードで疾走する。とくに乗客が怖がっている様子もないので、こう見えて意外と安全なのかもしれない。僕は運転手の言葉を信じて外の風景を眺めていたが、あるわあるわ、崖の下に真っ黒に焦げたバスの残骸が。やっぱり危ねーじゃねーか!

 しかも、当時はネパール内戦の影響で多くの検問が敷かれていた。そのたびにライフルを持った男たちが乗り込んできて乗客をくまなくチェックする。山奥の道に入ってからも執ように検問が続く。本当にしつこい。挙句の果てにはでっかい鎌を持った一団がバスに乗り込んできた。あまりに非日常的な光景に思わず笑ってしまった。もうどうにでもしてくれ。鎌を持った一団はなかなかバスを降りようとしない。しばらく運転手と言い争ったあと、ようやく何かを受け取って降りていった。あとから運転手に聞いたところ、山賊だったらしい。めちゃくちゃ危ねーじゃねーか!このやろー!

 いろいろあったが、バスは約7時間かけてポカラに到着。当時のポカラは“天国のような町”と呼ばれ、世界中のバッグパッカーたちの憧れの場所だった。鳥のさえずりで目覚め、ゆっくり朝食をとる。そこから散歩をしたり、手漕ぎボートで湖に浮かんだり、8000m級のヒマラヤの山々を眺めながらのんびりと過ごす。天国での数日間は刹那に過ぎ、あっという間にカトマンズに戻る日がやってきた。さすがにバスは懲り懲りだったので飛行機のチケットを予約した。バスの運賃よりもはるかに高額だが、たった30分で着くし、山賊にも遭わない(たぶん)。

 町はずれの小さな空港に向かい、カトマンズ行きのプロペラ機に乗り込む。座席に着くとすぐに客室乗務員が大きな綿のかたまりを持ってきた。乗客たちは各々にそれをつまんでは耳に詰めている。どうやら耳栓のようだ。離陸してしばらくすると機内からエベレストが見えた。耳栓の向こう側でエンジンの轟音がさらに勢いを増し、小さなプロペラ機は着陸態勢に入った。そのわずか数分後、滑走路に叩きつけるような荒々しいランディングであっさりとカトマンズ空港に到着した。

 シートベルトサインが消えて席を立とうとすると客室乗務員に呼び止められた。耳栓の綿を回収するという。うすうす気付いてはいたが、このまま次の乗客にリサイクルするのだろう。やけに黄ばんでいると思ったんだ。僕が使った綿もきっと誰かの使用済みに違いない。アカの他人との耳の中での異文化交流だ。

 機体のドアが開くと懐かしい排気ガスの匂いが入り込んできた。あぁ、これがカトマンズ。またクシャミが止まらなくなるのだろう。砂埃で涙を流すのだろう。早朝の空気は歪んでいるのだろう。知っている。僕はこの街を知っている。霞んだ風景はお世辞にも美しいとは言えないが、飛行機のタラップを降りる僕の足取りは自分でも驚くほど軽かった。

ライター

コジマコージ 

MUDAI代表/デザイナー/コピーライター 高校中退&就職未経験の逆エリート街道まっしぐら系フリーランサー。酔うと句読点について語るらしい。素敵な妻とかわいい娘のスリーピース家族。主な運動はダブルクリック。

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