コジマコージ

2019. 09. 12

人生には、「熱狂」が必要だ。

「ようやく春が来た」

 車の窓から外を眺めていた娘が呟いた。三歳になる少し前のこと、まだ肌寒い冬の終わりに季節外れの桜が咲いていた。親バカと言われればそれまでだが、年端も行かぬ幼子から大人びた言葉がひょっこり顔を出すのが何とも可愛らしい。その言葉の出どころはきっと絵本だろう。当時、数十冊の絵本の読み聞かせは僕たち夫婦の毎日の日課(「修行」ともいう)だった。四歳になってからは一人遊びの時間が増えたが、部屋の片隅で身じろぎもせずに絵本を凝視している姿はまさに「静かなる熱狂」といった風情で、薄紙のような集中力で日々を過ごす四十歳の僕にはひどく羨ましく感じられた。子どもは熱狂する天才なのだ。

 しかし、この「熱狂の日々」の記憶は大人になっても残るのだろうか。僕の場合、もとから物覚えが悪いタチなので、四歳の記憶なんて何ひとつ残っていない。つい先日も出先にカバンを忘れるわ、靴を忘れるわ、乗ってきた車を忘れるわの失態を演じたばかりだから、いちいちそんなことでは驚かない。ところが、うちの妻も「四歳の頃の記憶なんてない」と言う。そこから導き出された仮説は「幼少期の記憶はほとんど失われる」、もしくは「うちは夫婦そろってポンコツ」のどちらかだ。(コジマ家の名誉のために前者であると仮定して話を進める)

 幼少期の脳波は催眠状態とよく似ていて、外部からの情報は無選別で潜在意識に放り込まれるらしい。そんな理由もあって記憶に残りにくいのかもしれない。本人も自覚していない無意識の奥深くに、読み聞かせた言葉が静かに沈殿して人格を醸成していると考えると、「絵本を選ぶ」という親の責任は重大だ。きっと選び方に正解なんてないのだろうが、長年読み継がれてきた「古典」はやはり素晴らしいものだと思う。しかし、同じタイトルでも出版社によっては内容を大幅に省略するケースもあるからその点には注意が必要だ。

 言わずと知れた『北風と太陽』にもそんなエピソードがある。北風と太陽の二人は通りすがりの旅人のマントを脱がせる勝負をする。北風は冷たい突風で旅人のマントを吹き飛ばそうとするが失敗し、暖かい日差しでぽかぽかと照らした太陽が勝利する。「無理強いをしても人を思い通りに動かすことはできない」という教訓を北風の失敗を引き合いに出して伝えたいのだろうが、残念なことに大切な部分が抜け落ちている。

 そもそも北風は負けていない。

 じつは「マント脱がし対決」は第二戦目だ。その前に二人は「帽子脱がし対決」をおこなっていて、その対決では北風が勝利している。最初から二回戦勝負の予定だったのか、太陽からの申し出による泣きの第二戦目だったのかは分からないが、勝負は一勝一敗の引き分け。つまり、「北風は敗者」という一般的なイメージは完全に“濡れ衣”なのだ。

 ネット社会と呼ばれて久しいが、最近は拡散社会とも揶揄されている。情報の雨が降りつづける世の中で僕たちは傘もなく生きていて、みんな知らず知らずのうちにズブ濡れになっているのかもしれない。インターネット上では一旦シェアされた“濡れ衣”を完全に乾かすことは難しいだろう。しかし、リアルな濡れ衣(洗濯物)だったら早く乾かすコツがある。

 乾燥時間に影響を与えるのは天候や温度だけではない。重要なポイントとなるのは「風」だ。洗濯物を干すときは「こぶし一個分」の間隔を空けて、アーチ型(丈の長いものを端に、短いものは中央に)に並べると、空気が通りやすくなって洗濯物はより早く乾く。(室内干しには扇風機などを活用しよう)

 もし、北風と太陽の第三戦目が「洗濯物の乾かし対決」だったらどちらが勝っただろうか、と妄想していてハッとした。いやいや、ちょっと待て。北風と太陽が協力すれば最強じゃないか。身も蓋もないが、勝ち負けにこだわらなければいい。太陽は思う存分にギラギラと照らし、北風は一生懸命に突風を吹き荒らす。お互いが得意な分野で能力を最大限に発揮すれば、まったく新しい価値が生み出されるかもしれない。偶然だろうが、“競争”と”共創”の読み方は同じ〈キョウソウ〉だ。

 僕の好きな言葉に「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」というものがある。自分が得意なことのタネはきっと「熱狂の日々」の記憶の下に埋まっている。その花がいつ咲くのかは本人にもわからないが、根っこは毎日伸びつづけていると信じよう。咲いてくれるなら季節外れの狂い咲きでもいいじゃないか。人生にはちょっとした“狂騒”も必要なのだ。

ライター

コジマコージ 

MUDAI代表/デザイナー/コピーライター 高校中退&就職未経験の逆エリート街道まっしぐら系フリーランサー。酔うと句読点について語るらしい。素敵な妻とかわいい娘のスリーピース家族。主な運動はダブルクリック。

この人の記事を見る

PAGETOP